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バーブラ・ストレイサンド コンサート体験談 [Vocal]


過去にここのブログでも書いてきたように自分はバーブラ・ストレイサンドのコンサートをラスベガスに観に行ったくらいのバーブラの大ファンである

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バーブラは日本には映画のプロモーションで来日した事はあるが、今まで一度も日本でコンサートをしたことが無かった(今でも今後もあり得ないと思う)

それで、日本ではバーブラを観る事が出来ないと思って2000年の大晦日から2001年の元旦にかけてのミレニアムコンサートを観にラスベガスまで行った

自分はビートルズとシナトラ、そしてバーブラが自分の3大ファンだった

ビートルズはジョンが亡くなりグループとして観る事がもう永遠に不可能になっていたので、ポールやリンゴのソロコンサートは観る事が出来たとしてもビートルズのコンサートを観る事は有り得なかった(と言うか、ビートルズがコンサートをやる事を止めた時点で特別な人以外はビートルズの演奏を観れなくなっていた)

シナトラは自分がかなりファンになっていた頃は未だ健在で来日もしていた。しかし本州だけでの公演だったし、高額なチケット代とかなりの競争率でチケット入手も難しかったので、コンサートを観に行く事は最初から諦めていた

その後シナトラが亡くなって、やっぱり観ておけばよかったなぁと悔やんだが、確実にチケットを入手出来てコンサートを観に行けたとは限らなかったけど・・・

その自分の3大ファンの中でコンサートを観に行ける可能性があったのはバーブラだけだったので、その頃は自分の人生の中でも色々あった時期で希望退職により退職金も出た事もあって、思い切ってバーブラのコンサートを観に行く事を決めた

ミレニアムの大晦日、ホテル代も旅行代金も高騰する時にツアーでもなく個人旅行で計画したのだが、どうやってチケットを手に入れる事にしたのかと言うと

JTBに相談に行った時にチケット入手も条件で旅行の申し込みをすると言う事で個人旅行として飛行機やホテルのツアーの申し込みをした

チケットはラスベガス現地で渡してもらう段取りになっていて、一番良い席で日本円に換算しても25万以上で、それに手数料が上乗せになって合計で30万弱になると言う、とんでもないチケット代になると言う事も了解していた

自分としては人生に於いても最後の贅沢だろうと思って、生きている内にこれくらいの金をかけてでも観たいアーティストをアメリカまで観に行っても良いだろうと覚悟の上で決めた事だった

先に言ったようにホテル代も飛行機代も何から何まで最も高額の時期に個人旅行で行く事にしたツアーだったから、旅行代だけでも通常のパックツアーの4~5倍はかかったと思う

それに行く場所も場所だったので、人生二度目のラスベガスだったけど、二度ともギャンブルは大負けした!

まぁ~一般人ですから金額は知れてますが、例で言うとその時までの人生で負けていたパチンコ代の総額の半分をギャンブルで全て使ってしまった!って感じです(それ以来ギャンブルはもう二度としていません!w)

ラスベガスは1度目に行った時も結局ギャンブルばかりでミュージックステージは観ていなかったし、二度目の時もバーブラのコンサート以外で滞在中に観に行こうとトニー・ベネットも現地で予約していたのだが、ギャンブルに熱くなり過ぎて結局行けなかった

その事は本当に今でも後悔している

その時にトニーを絶対見ておくべきだった

その後にトニーの札幌公演も一度発表になった事があって、ラスベガスの時の件もあり絶対申し込もう!と思っていたのに、トニーの病気でコンサートがキャンセルになってしまい、結局トニーは現在でも健在だけど、自分としてはもうステージを観る事なんて不可能な事になってしまったので、やっぱりラスベガスで観に行かなかった事を心から悔やんでいる


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ラスベガスはやはりすごいところで、バーブラのコンサート会場はラスベガスで最高峰のMGMグランドだったのだけど、その向かいのルクソールでバーブラに対抗する形でベット・ミドラーのステージが同じ時期にもやっていた

バーブラも二日間のステージだったしベットも数日のステージだったので、ベットはバーブラから見たら良心的なチケット代だったので観に行こうと思えばベットのステージも観れたはずだった


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自分はこれだけ音楽好きで観たいアーティストのステージもラスベガスのあちこちでやっていたはずだったから、ギャンブル何かに夢中にならずにいたら滞在中に複数のコンサートに行っていてもおかしくなかったのに場所が悪すぎたw

バーブラのコンサートを観に行く時の飛行機の中でラスベガスに到着して飛行機の中で降りる用意をしていた時に、自分はバーブラの本を持っていたので、それを見て声をかけてきた日本人の女性がいた

その女性もやはりバーブラのコンサートを観に来た人で、日本で1番とも言えるくらいのコアなバーブラファンの女性だった

その女性は過去にアメリカでも数回バーブラのステージを観ている人で、自分達がその時ステージを観た後に彼女はオーストラリアまでも観に行った凄いバーブラの追っかけの人で、その後も暫くバーブラファンとして連絡を取り合った人だった

彼女はバーブラのアルバムをオリジナルでコンプリートで揃えているくらいの日本一のバーブラファンの女性でしょう(自分はコロンビアレーベルオリジナル盤では揃えてないし、数枚足りずコンプリになってない)

その彼女はバーブラのコンサート会場であるMGMグランドに泊まる事になっていたので、ベガスの飛行場から一緒にタクシーで先ずMGMグランドホテルに行って、そして改めて色々と話をしてお互いに連絡を先を教え合って、コンサート当日に彼女の部屋で着替えをしてからコンサートに向かおうと約束して自分が泊まるホテルに行った


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コンサート当日の31日の3日前に現地に入ったのでチケットを受け取りに行ったり、コンサートが終わってからの滞在期間中にグランドキャニオンのヘリコプターツアーを申し込んだり、勿論軽くギャンブルしたりして過ごした

自分はバーブラのコンサートではゴージャスなステージになると思って、日本からタキシードを貸衣装で用意して行ったので、コンサート当日は自分も彼女の部屋で着替えさせてもらって、彼女の部屋には彼女のアメリカ人の友人3人も集まっていて、やはり彼女達もドレスに着替えてみんなで記念写真を撮りコンサート会場に向かった

知り合った日本人の彼女はバーブラファンの知り合いが結構いたので、彼女の部屋で一緒になったアメリカ人の友人以外に男性の友人もいて、バーブラファンはゲイが多いと言われているのだけど、やはりその通りで彼女の友人もコンサート会場にもそれらしき人が結構いた

コンサートの席は結構前の方だったのだけど(高額のチケットだから当たり前か)真正面じゃなく横の方だったのだがバーブラを間近で感じる事が出来てモニターもあったのでバーブラの顔もアップで観れた

マービン・ハムリッシュが指揮する大編成のフルオーケストラをバックに、ドラム=ジョン・ロビンソン、エレクトリックベース=ニール・ステューベンハウス、ウッドベース=チャック・ドマニコ、ギター=ディーン・パークス、キーボード=トム・ラニア、キーボード=ランディ・ウォルドマン、パーカッション=ボブ・ジミッティ、そしてホーンにジェリー・ヘイ等が参加していた超豪華な編成での演奏


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バーブラがメインなのでオーケストラ&バンドメンバーにスポットが当たる事が殆どなかったので、ジョン・ロビンソンを筆頭とした凄腕のミュージシャン達を目のあたりにするって事はなく、音として聴くと言う事しかなかった

まぁバーブラがメインの完璧に仕切られたコンサートだったので、ミュージシャンにスポットライトが当たる事は無かったのだが、唯一スポットライトが当たったのはウッド・ベースのチャックが「クライ・ミー・ア・リヴァー」の時にステージ前面に出て来てベースのソロをとった時だけだった


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この時のCDもDVDも勿論購入しているのだが、もう21年も前のコンサートになるのでコンサートのステージ詳細と雰囲気は忘れてしまっている部分もあるけど、ミレニアムのニューイヤーズイヴのコンサートと言う事もあり、完璧主義者のバーブラが新年の0時に合わせて進行する為にセリフから演奏までアドリブ一切無しで、バーブラはセリフもプロンプターを見ながら言っていたし、結局のところバーブラはコンサートのビデオ撮りやアルバム化にあたって一切アドリブ無しのステージをする事がバーブラの主義だったと言う事だった

しかしセリフまで台本通りだったとは・・・リアルでステージを観て真実を知ってしまって、ちょっとがっかりしてしまった記憶がある

そんな中で涙が出るほど一番感激したのは亡きシナトラとスクリーン上でデュエットして「I've Got a Crush on You」を歌った時だった

シナトラのアルバム「デュエッツ」でU2のボノとデュエットした「I've Got You Under My Skin」と並んで、このシナトラのアルバムの中で一番聴いていた曲だったから(元々ガーシュインナンバーとして好きな曲だったが、シナトラとバーブラのデュエット曲だったから、最も聴いた曲になって当然の曲だった)そりゃ~感激も一入だった


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あとはこのコンサートではバーブラの定番曲のオンパレードで、バーブラがステージで常に歌ってきた曲は当然のようにやった

とにかくこのコンサートは一生に一度しか味わえないような後にも先にも、豪華な雰囲気を味わえたコンサートだった

自分としてもこれだけの大金をはたいてまで外国にコンサートを観に行く事はこれが最後のつもりで行ったので、自分としてはもうこのようなコンサートの雰囲気は味わえない忘れられないコンサートだった

コンサートが終わった後は又ホテルの部屋で揃った5人で集まって食事をしながら、バーブラの感激のステージを話し合った

そして又、日本人の女性の部屋で着替えをさせてもらって自分のホテルに戻った

その時に知り合ったバーブラファンの女性とは日本に帰る時も一緒の飛行機だったので最後に成田で別れて、その後も連絡を取り合っていた

彼女はその後のバーブラのコンサートも追っかけしていたので、自分よりも凄いバーブラファンの方でした

さすが!日本一のバーブラファンです!

自分はこのコンサートの後、数年間は毎年の大晦日にはこの時のCDを聴きながら、その時のコンサートを思い出して感激に浸るのが恒例だった

バーブラは今年79歳になって最近もCDを出したばかりだが、もうこのようなコンサートステージは無理だろう

まだ正式には引退はしていないと思ったが・・・

とにかく自分としてもここで語ってきたように彼女の大ファンで、未だに新譜として出たアルバムは購入して来ている

日本では絶対観れなかったバーブラのコンサートをラスベガスまで行ってまでも観ておいて本当に良かったと思うし一生の思い出になっている

自分は彼女を最初に知ったのは70年代のヒット曲「追憶」のアルバムを買ってからで、彼女がスタンダードを歌っていた事で60年代の彼女のアルバムを全部揃えて、その後はリアルタイムで彼女を追いかけていた


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だから彼女がポップスもディスコも歌っていた時代も全て聴いて来ているが、やはり彼女はミュージカルのスタンダードを歌っているのが一番だと思っている(確かにバリー・ギヴとのデュエット「Guilty」やディスコの「The Main Event/Fight」も良いんですけどね)

彼女も芸歴が長い分アルバム数も相当な数なので、また自分の気に入ったバーブラのアルバム等を機会があったら書いて行きたい

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日本一のジャズシンガー 弘田三枝子さん [Vocal]

弘田三枝子さんが亡くなって1カ月が経った


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そしてサンソンの達郎さんとまりやさんとの夫婦放談で弘田三枝子さんを取り上げていた


洋楽が好きになり本格的に音楽好きになった中学生の頃から自分は歌謡曲のレコードを買うなんて事も無かったし、テレビラジオ等で意識して歌謡曲、邦楽を聴くような事はなかった、と言うよりも、むしろバカにしていた(ニューミュージックやシティポップと言われる邦楽を聴くようになるまで)

それで大学生になりジャズも聴くようになって行った頃に、ベースプレイヤーのリチャード・デイヴィスの77年のソロアルバム「Fancy Free」を買った時に弘田三枝子さんの名前を見付けて非常に興味を持った


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弘田三枝子さんの歌謡曲のヒット時代は勿論知っていて、自分は歌謡曲の人だと思っていたので、ラジオ等で弘田さんがジャズを歌っている事は何となく知っていた記憶もあるのだが(テレビ番組の「サウンドインS」等で弘田さんがジャズを歌っていたのは見ていた)、リチャードのアルバムで改めて弘田さんはジャズを歌っているんだ!と、気付かされた

弘田さんの歌はリチャードのアルバムでは本格的なスタンダードジャズって感じよりも、ミディアムなライトジャズって感じの歌唱で1曲しか歌っていなかった

それでも弘田さんはリチャードと繋がりがあるんだ!と思って、それからかなり後の83年に弘田さんのアルバム「Touch of Breeze」を買った


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このアルバムはジャズと言うよりも今で言うシティポップ系のサウンドで当時は売り出されたアルバムだった。

大野雄二さんがプロデュースとアレンジをし、昨年観た大野さんのコンサートのメンバーでもあった、ドラマーの市川康さん、ベースの長岡道夫さんや、岡沢章さん、高水”大仏”健司さん、日本のモダンジャズの重鎮のウッドベーシストの荒川康男さん、ギターは矢島賢さん、松原正樹さん、土方隆行さん、ボサノバ・アコースティックギターの名手で中牟礼貞則さん、キーボードは大野さんと大谷和夫さん等の錚々たるメンバーで録音されたアルバムである。


シティポップを意識したアルバムだったのでスタンダードジャズを歌うと言うアルバムではなかったのだが、殆どの曲を大野さんが作曲して捨て曲無しの全曲標準以上の出来の楽曲が入った良く出来たアルバムだった。


どんなジャンルでも歌いこなせる弘田さんの抜群の歌唱力はこのアルバムでも納得させられた


それから弘田さんのポップスを歌っているアルバムや「じゃずこれくしょん」のボックスセット等も購入して、弘田さんのジャズアルバムと言うものは殆ど揃えた


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その中でも日本人シンガーとして初めてニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演の為に渡米した時の65年にNYで録音された「Miko in New York」


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ビリー・テイラーのピアノ、ベン・タッカーのベース、名手グラディ・テイトのドラムのトリオをバックに録音された


あのエラ・フィッツジェラルドに「弘田さんを是非!養子に欲しい!」と言わせたくらい、弘田さんの歌唱は本場のアメリカでも認められた。


このアルバムは弘田さんが18歳の時の録音されたアルバムだが、アルバム1曲目のベン・タッカー作曲、ボブ・ドロー作詞の「Right Here Right Now」で、弘田さんの素晴らしいスキャットが聴ける


日本人とは思えないスウィング感で、弘田さんのスキャットは日本で一番!と、自分は思っている


「Right Here Right Now」と同コンビのベンの作曲、ボブの作詞で、ハービー・マンやメル・トーメで有名になった「I'm Comin' Home Baby」でも、弘田さんのスキャットが聴け、ベンのアドリブで「さくら、さくら」のベースフレーズも聴ける


そんな中でもアルバムラストナンバーのベニーグッドマンとライオネル・ハンプトンが作曲した「Flying Home」の弘田さんのスキャットは秀悦だ 


トリオの演奏がメインとなった長尺の曲で弘田さんはスキャットしかしていないのだけど、充分聴き応えがある


弘田さんは進駐軍のキャンプで幼い時からポップスやジャズを歌っていたので、弘田さんが中学生の時にデビューした時から弘田さんはジャズも歌えたので、NYで録音した「Miko in New York」よりも前に日本でジャズナンバーを歌うアルバムも出していた


63年に出した弘田さんの記念すべき最初のジャズアルバムの「弘田三枝子スタンダードを唄う」では八城一夫トリオをバックに歌うガーシュイン作曲、バラード・マクドナルドとB.G.デシルヴァが作詞した「Somebody Loves Me」と、宮間利之ニューハードのビッグバンドをバックに歌うベニーグッドマンの超有名曲「Sing Sing Sing」が特に素晴らしく、16歳の日本人シンガーが歌が上手いだけじゃなく表現力があって本当にスウィングしてジャズを歌っている事は当時でも現代でも凄い事だったと思う


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同じ63年に出された日本の民謡をジャズアレンジで歌うアルバム「日本民謡を唄う」でも、前田憲男さんのアレンジ、宮間利之ニューハード・オーケストラをバックに「おてもやん」や「ソーラン節」等ではスウィング感だけでなく、弘田さんのパンチのある歌唱が当時ポップスのカバーのヒット曲だけでなくジャズでも聴ける


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これだけの表現力と歌唱は歌が上手いだけじゃ出来ない。やはり本場のアメリカ人の前で弘田さんが幼い頃から歌っていたから独特のパンチ力のある歌唱が出来たのだと思う


普通歌唱に於いてこんな大袈裟とも言える表現力は当時の日本人では恥ずかしさもあったりして中々出来なかったと思う


あと60年代のジャズアルバムでは66年に出た「Miko in Concert」


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原信夫とシャープス&フラッツとの共演のライヴアルバムで、これまた全曲スタンダードナンバーをビッグバンドをバックに弘田さんが歌っている。弘田さんの歌唱は弘田さんがポップシンガーじゃなく正にジャズシンガーであると言う事を証明している


全曲素晴らしいが、その中でも「Mack the Knife」「I've Got You Under My Skin」が凄く良く、特にトラディショナルナンバーの「When the Saints Go Marching In (聖者の行進)」がビッグバンドのアレンジの良さと相まって聴き応えがある。


70年代に入ってからの弘田さんのジャズアルバムでは、73年の「Jazz Time」の中の「I Want to Be Happy」高速スウィングで弘田さんが軽快に歌う


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弘田さんのアルバムでビッグバンドではなくコンボをバックに録音されるようになってからは鈴木宏昌さん(コルゲン鈴木)や大野雄二さんのアレンジでの録音が多くなっていくが、70年代に入り純粋なスタンダード系のジャズナンバーばかりじゃなく、次第にフュージョン系の演奏やアレンジの中で70年代ソウルナンバーも歌っている


そんな中でサンソンでも取り上げられていた76年のアルバム「My Funny Valentine」ではアレサの「Day Dreaming」もカバーしている


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コルゲンさんの弾くエレピ、市原さんのドラム、岡沢さんのベース、松木恒秀さんのギターと、当時のクロスオーバー系のサウンドアレンジでアレサよりもかなり洗練されたアレンジで弘田さんが歌っている
そして同じくコンボ編成でフュージョンサウンドのアレンジでスタンダードを歌っている77年の「In My Feeling」
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当時事件にもなった三角関係の当事者でもあるジャズギタリストの杉本喜代志さんが参加しているアルバムで、自分的にはスタンダードをフュージョンアレンジで歌ったものは余り好みではないのだが(曲にもよるけど)、アーヴィン・バーリン作の「They Say It's Wonderful」と、先に話した当時親密な仲になっていた杉本さんが作曲した曲に弘田さんが作詞したナンバーの「I'm Blind to All But You」が特に良い
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あとは78年の再度リチャード・デイヴィスと共演したNY録音の「Step Across (with Richard Davis)」
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リチャードのベースに、ビリー・コブハムのドラム、スタンリー・カウエルのピアノ、ジョー・ファレルのサックス、日野照正のトランペットの豪華メンバー


スタンダードナンバーをメインとした楽曲と数曲のオリジナル曲で構成されたアルバム


ガーシュイン兄弟作の「Our Love Is Here to Stay」、ロジャース&ハートの「Bewitched」が高速スウィングナンバーで、このアルバムの中では特に自分が惹かれる曲だ


弘田さんは音楽以外で話題になる事もあって残念な事もあったと思うが、弘田さんのシンガーとしての実力は稀に見る才能の持ち主のオンリーワンなシンガーとして特に音楽関係の人達やファンからは正当に評価されていたのは確かだったと思う

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そもそもの音楽との出会い [Vocal]

洋楽好きになったのは中学生の時からだったのだが、


今にして思えば、この曲が洋楽との出会いの最初の曲だった。


小学生の低学年の時、親戚の従兄弟の家で、遊びに行けば必ず聴いていて、何度もレコードをかけてもらい聴いていた曲


スティーヴ・ローレンスの「悲しき足音」


当然、その時は誰の曲かも、何て言う曲かも、勿論、スティーヴ・ローレンスと聞いても、子供には全然分からなかったのだが、


とにかくこの耳に残る「フットステップス♪」と言う歌詞のリフと女性コーラスが、口ずさみ易く、子供心にしてずーっと耳に残っていたのだと思う。


このスティーヴ・ローレンスも今は当たり前のようにアルバムも数枚保有し、自分の好きなジャズ系、エンターティナー・ショーシンガーとしても大好きなシンガーとなっている。


イーディ・ゴーメと結婚し、夫婦揃っての曲も良いが、スティーヴの1964年のアルバム「Everybody Knows」に入っている、トゥーツ・シルマンスのナンバー「Bluesette」が 何と言っても素晴らしい!


ロバート・マーシーのビッグバンド・アレンジがラスベガスのショーステージの華やかさを感じさせ、自分がスタンダード好きになっていったアメリカの華やかな時代を思い起こさせるジャズナンバーだ。


今となっては、これだけ自分が音楽好きになった最初のきっかけになった曲「悲しき足音」に感謝したい


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